「新自由主義は終わるのか?」
───『金融危機の資本論』(本山美彦+萱野稔人)から
萱野稔人(哲学)+山口素明(フリーター労組)
コーディネート:平井玄
・ 3月28日(土)14時から
・素人の乱12号店 北中ホール
・資料代500円+できたら投げ銭
貧乏人は生き延びることができるのか?そんな言葉がこの身に食い込む。
今、私たちはかつて経験したことのない「時間」を生きている。
製造業の派遣切りや正社員削減ばかりがメディアで取り沙汰された。
だが彼らの行き着く先、都心部フリーターこそ食えない。
1月から仕事がゾッとするほど激減した。
月10日以上仕事のある者など、周りにはまったくいない。
1月はまだ去年の蓄えがあった。2月になると、ATMが吐き出す
残高記録を見るたびに痩せていく数字が眼に痛痒い。
やってくる春のことなど考えたくもない。彼らのメールで囁かれるのは、
「これがいつまで続くのか?」ということばかりだ。
終電が終わった新宿駅の地下に行けば、まだ油染みの少ないジャンパー
で段ボール1枚持って寝場所を探す人たちに会うことができる。
JRから地下鉄へ向かう通路の脇で、邪魔にならないように縦に並んで寝る。
これまで見たこともなかったその「縦」の列が日ごとに長くなる。
ハウスの作り方を、この元派遣や元フリーターたちが覚えるのは早いだろう。
毎日毎日、アパートの部屋で携帯を握りしめながら就活と失職を繰り返す
女たちや男たち、食い物を探して街の隙間から隙間へと身を隠すように移動する
人間たちの姿を、当局者はどうカウントするというのか?
この国が発表する統計数字は人を騙すためにある。
目の前で地下に流れ込む人間たちの濁流こそが、今起きていることである。
これは大地震や巨大津波のような、どうにもならない「自然災害」なのか。
「百年に一度の大恐慌」とは、そんな「自然循環」の幻に人を閉じこめる言葉。
「恐慌、貧困、危機」とタイトルされた本はみな、企業タワーの最上階でエリー
トたちが自分のために語る言葉か、「這いつくばってどうにかやり過ごせ」とい
う奴隷の言葉で書かれている。貧乏人にはブックオフで買う気も起こらない。
2年前まで院卒フリーターだった萱野稔人が、68年を経験した経済学者である
本山美彦と語り合った『金融危機の資本論』は、この閉じた「時間」をこじ開け
ようとしている。今はちょっとした「調整」の時、と値の下がったネオリベ株に
しがみつく亡者どもと、生き延びるための具体性になかなか手の届かない
「プレカリアート運動」との間に、きわどい「逃げ道」を作り出そうとしている。
この落ちていく「時間」は、どこから来たどんな時間なのか?
貧乏人たちは、この「時間」をどう生き延びたらいいのか?
語られる「アジアに開かれた経済的ナショナリズム」はどんな「迂回」なのか。
そこに危険はないのか。その先にどんな未来があるのか。
萱野稔人によるこうした提起は、新自由主義にぶつかった晩年のピエール・
ブルデューが抱いた強い危機感を思わせる。腹の減った者たちは、このヤバさを
何よりもまず共有するだろう。食えなければ死ぬからだ。
ここから議論を始めよう。
私たちの友人が投げかけたこの貴重な提起について、
フリーター労組を担ってきた山口素明と共にしぶとく語り合いたい。
(平井玄 参照→http://booklog.kinokuniya.co.jp/ )
まるで、哲学者=山口素明と、御用政策論者=萱野稔人の対談だった。
萱野の立論は、ヘゲモニーを持っている側の良心的を偽装した御用政策論でしかなく、「哲学者」なる名札にももとるようなものだった。対する山口素明の姿勢と思考は、いまや、世界は徹底的に現実的であることは徹底的に根源的な思考を必要とされているということを示していた。萱野の話は、最終的には「善き君主論」に頼るしかなくなる。そして、萱野自身が国家の政策審議会入りを果たすという結果しか招かない。
「じゃあ、ナショナリズムを統御することなんてそもそもできるのか?いったい誰が統御するのか?ここまで来るとよくわからない」と言う山口は、思考と実践の限界を体験する言葉を提示した。
萱野は、単なる「アンチ=偽左翼」を念頭に話しているだけで、良心的なナショナリストの既得権益内にのみ有効な、留保された言葉を繰り返すだけだった。萱野の言葉は、抵抗運動のための基軸にはなれない。そんな留保付きのお題目で、薄給の労働時間に身を削っている者達は、動かないし、だまされない。
それでも今回の対談で、ナショナリズムとヒューマニズムが絶望的にでもリンクする場所/言葉/瞬間を目指して、常に思想と実践の限界に立ち続け、限界の言葉を模索しようとする山口素明こそが、現代の哲学者であると確信した。
いかなるフレームであっても、そのフレーム内での政策論は、全く有効性を持たないことが裸形のままに完全に露呈してきたのが、今回の金融恐慌なのに、フレームが大事と言っているだけで、そんなことは当然の話でしかない。そんなことは、みな自室の書斎で自分で常にやっていることで、その先のことをどういう言葉で組織できるのかということがライブであり、対談の場所だ。
その先の解らない場所を巡ってともに言葉を模索するという場を作れない者が、いいセッションをできるはずもないと思うのだが・・・。